大和(奈良県)の綿

大和(奈良県)の綿

 大和国(奈良県)では、江戸時代以前の元亀・天正頃(安土桃山時代)からすでに木綿栽培が盛んに行われていたことが文献の上からもはっきりとしています(朝倉弘「近世初期の大和の綿作について」京都大学文学部読史会編『国史論集二』所収、1959年)。 江戸時代の初期(1645年)に成立した『毛吹草(けふきぐさ)』という書物の中でも、大和の名物として早くも「郡山の繰綿」が取り上げられています。
 畿内では、その後、河内、和泉、摂津が木綿栽培、紡績、織布の先進地帯として発展していくことになりますが、大和地方もそれらと並ぶ綿の産地として展開していくことになります。

農業用水不足の解決策としての綿花栽培

 大和の国中(くんなか・平地部分、奈良盆地)で盛んに木綿が栽培されるようになった背景には、農業用水の不足があったと考えられています。
 奈良盆地はもともと雨が少なく、その深刻さは「大和豊年米食わず」という言葉に象徴されています。つまり、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年であり、他の地方が豊作であれば大和は干ばつに苦しむという意味です。そのため、大和盆地に暮らす人々は古代からさまざまな工夫を重ねてきました。戦後まで数多く残っていた溜め池もその一つです。また、「隠し井戸」と呼ばれる農井戸(のいど)もその一つで、普段は蓋をして土で隠しておき、水不足に陥るとその蓋をあけて用水として利用するというものです。
 さらに、天理近辺では水源とする河川が布留川しかなく、その布留川を幾筋にも分岐させて支流をつくり、下流の村々に水を配分していた歴史があります。そこには、水をめぐる戦いの歴史があり、水利権に関しては厳格な取り決めがあって、現在でも行われている「大川浚え(おおかわざらえ)」という行事にその名残をみることができます。
 ※天理市域における水利水論の歴史は『改訂天理市史(上)』(P265-282)に詳しく記されています。  
 そして、限られた用水を有効に活用する手段の一つして、綿づくりが推奨されたと考えられるのです。『青山四方にめぐれる国-奈良県誕生物語-』(昭和62年、奈良県発行)には、以下のよう記されています。

 大和の農業の最大の特徴は土地の生産力が高いことである。古くからかんがい施設が整い、干鰯・油かすなどを多量に使い、効率的な農業をおこなってきた結果である。こうした土地で、江戸時代には米・麦のほか、商品作物として綿花・菜種・茶・たばこなどを盛んに栽培していた。雨の少ない奈良盆地では水田のすべてに稲を植えつけると農業用水が不足するため、その解決策として綿と稲とを1年ごとに交代で植えつけ、裏作には麦・菜種などを栽培した。綿花・菜種の生産量は多く、江戸時代から明治初期にかけて指折りの産地として知られた。
 ところが幕末の開港以来、外国産の安価で良質な綿糸・綿花が入ってくると、大和の綿作は衰退に向かい、明治20年代に入るとほとんど姿を消してしまうのである。(243~244頁)

 また、『教祖の御姿を偲ぶ(下)』(道友社 昭和40年再版)という書物には、昭和20年代の天理在住の市民の語り伝えとして、以下の内容が紹介されています

 「教祖のお神がかり以前のことを、私の祖母お信がよくいつておりました。昔、中山さんの綿畠が今の上之郷詰所のところあたりにあつて、教祖は夕方まで綿摘みをしておいでになり、北田と畠が隣同志だもんでよく話をしたそうです。祖母は大へん美しい優しい方じやつたと、いつておりました。
 この辺は、みな、藤堂家の領分でありまして、今では綿の木なんか見とてもありませんが、昔は、一町百姓に綿三反、二町百姓に綿六反といつて、強制的に綿をたくさん作らせました。」
 右は、昭和二十三年十月五日、当時八十三才の、三島北田竹松さんのお話である。」(86頁)

 ちなみに、ここに出てくる「教祖」とは天理教の教祖「中山みき(1798-1887)」を指しており、「上之郷詰所」とは、現在の三島町130番地あたり、国道169号線の北大路交差点を南に100メートルほどのところにあたります。
 ※奈良県における明治20年代以降の綿作の衰退については、『改訂天理市史(上)』(P399)にも具体的に記されている。

近世の大和の綿作について(史料に基づく論文より)

 江戸時代の大和の綿作の状況について、参考になると思われる論文を4編紹介させていただきます。検地帳その他の史料に基づいて詳しい考察がなされており、各編ともとても興味深い内容になっています。
 1つ目は、奥田修三氏の「近世大和の綿作についてー畿内綿作におけるその地位ー」という論文です。大阪歴史学会編『ヒストリア』第11号(1955年)に収められています。
 従来の研究が、幕末ー明治初期の綿作状況の分析によって、近世畿内綿作の全体を解明しようとしてきた傾向にあることを指摘された上で、大和綿作の畿内における地位の低さは、必ずしも近世全般にあてはまるわけではないことを明らかにされた論文です。畿内における綿作の先進地域はむしろ大和や山城にあり、それが摂津、河内へと広まっていった点について考察されています。そして、なぜ18世紀以降に大和の綿作が衰退に向かうのか、その理由についても詳しく考察が加えられています。
 2つ目は、朝倉弘氏の「近世初期の大和の綿作についてー中部大和の場合ー」という論文です。京都大学読史会編『国史論集(二)』(1959年)に収められています。
 上記の奥田修三氏の論文がおもに北和地域の史料に基づいてなされていること、また近世中後期に重点が置かれていることを踏まえた上で、近世初期の中和地域における史料に基づき、当時の綿作のあり方について考察を加えられています。そして、現在の奈良県大和高田市根成柿にあたる、根成柿村の検地帳その他の史料から、大和では近世初頭からすでに商品作物として綿の栽培が行われていたことが伺い知れること、また、初期の段階では「用水不足の解消」が必ずしも綿栽培の主な理由であったとは考えられないことについて論じられています。「田方綿作(元来は田である土地に綿を植える)」と「畑方綿作(もともと畑である土地に綿を植える)」の作付率の比較から考察を試みる手法は奥田氏と共通しており、「大和の場合、近世中後期の綿作は田方が一般的であるが、その理由は一応用水不足の解決策にあると考えられる。」としながら、「之にたいして近世初期の綿作は根成柿・四條の場合畑方が一般的であること前述したごとくである。すなわち用水不足とは一応関係がなかったと考えられる。この点において大和では近世初期と中後期とでは綿作付の行なわれた理由において相違が考えられなければならない。」と指摘されています。
 3つ目は、谷山正道氏の「近世大和における綿作・綿加工業の展開」という論文です。『広島大学文学部紀要』第43号(1983年)に収められています。
 上記の奥田、朝倉両氏の研究をはじめ、それ以降に発表された論考を踏まえながら、近世大和の綿業の動向全般に再検討を加えつつ、近世大和の綿作およびその流通、加工の動向について考察を加えられています。
 4つ目は、岩崎公弥氏の「明治期奈良盆地における綿作率の地域差と灌漑条件との関係」という論文です。『愛知教育大学研究報告』第47号(1998年)に収められています。
 大和における綿作と、灌漑施設との関係について論じられたもので、「大和の綿作が『からけ作』と呼ばれる大和独特の節水農法によって支えられていたことは周知のところである。」と指摘された上で、灌漑施設が比較的整っており、用水が安定している地域と、そうでない地域との綿作率の差を、データに基づいて明らかにされた論文です。
 18世紀以降に大和の綿作が衰退していく一つの要因として、「田方綿作を途絶させるような用水条件の改善があったと想定せざるを得ない」と指摘されています。「灌漑条件」という、先行研究とは異なる視点からのアプローチがユニークで興味深い論文となっています。

大和国の綿作について(江戸時代の農業書『綿圃要務』より)

 江戸時代の各地の綿作の状況について記した書物として、『綿圃要務(めんぽようむ)』が知られています。大蔵永常が著したもので、江戸時代後期の天保4 (1833) 年刊。綿花栽培の技術書で、栽培技術やおもに畿内と中国地方の栽培事情について述べています。
 上下巻からなり、上巻では、顕微鏡まで用いて形態を図解した上で、気候適性、品種分類、種子の扱い・播種法、油糟や干鰯など肥料の種類と与え方、綿摘みなど、イラスト付きで解説してくれています。下巻では、主要産地の畿内、山陽の綿栽培を具体的に解説するとともに、品質の判別基準についても紹介しています。
 著者の大蔵永常(1768-1860)は、豊後国日田郡隈町(現在の大分県日田市)の出身です。町家に奉公していた大蔵は、天明の大飢饉に苦しむ農家を目のあたりに見聞し、暮らしの安定には換金作物の普及が重要と感じて農学を志したと伝えられています。
 以下に、『綿圃要務』の中から、おもな部分をPDFで紹介します。
 ※「大和国の綿作り」『綿圃要務』(PDF)
 ※「総論、綿の種類」『綿圃要務』(PDF)
 ※「綿の栽培」『綿圃要務』(PDF)
 ※「綿品質の善悪について」『綿圃要務』(PDF)

大和絣と近代紡績のこと

 早くから綿づくりが行われていた大和では、織物の生産も盛んに行われるようになり、江戸時代の中頃には「大和絣」が生まれ、次第に全国に知られるようになっていきました。
 『青山四方にめぐれる国-奈良県誕生物語-』(昭和62年、奈良県発行)には、次のように記されています。

大和絣の盛衰

 江戸時代からの綿花の産地であった大和では、綿織物の生産が盛んであった。宝暦年間(1751~64)、御所の浅田松堂が松阪木綿の技術を取り入れてはじめた大和絣は、かすり模様のざん新さと天然の藍から取った正紺の美しさが評判となって販路を広げた。明治になって国産の綿作がふるわなくなってからは輸入の綿花や綿糸を用い、織機に改良を加えながら生産は順調に伸びつづけた。
 ところが明治10年代に入ると一部の心ない業者が泥紺と呼ばれる染料を使い、質の悪い製品を売り出したため大和絣の評価はしだいに下がった。そのころ正紺を用いた大和絣でも阿波縮とか河内木綿など別の産地の名をつけなければ売れなかったといわれる。
 明治16年(1883)、大阪府は品質改良のため、木綿商・織屋が団結して仲間規約をつくるよう命じた。これに応じて大和木綿業組合が結成されるのだが、泥紺が追放され大和絣が信用を回復するのは奈良県再設置後まで待たなければならなかった。(247-248頁)

近代紡績業のめばえ

 大和絣の生産が活発であった背景に紡績の盛んであったことをみのがすわけにはいかない。
 天保4年(1833)に出された大蔵永常の『綿圃要務』という本の中には「大和国では女だけでなく男も40~50歳より上の人は家内にいて多く糸をつむぐ」としるされており、農家の副業として手紡ぎが盛んであったことがわかる。
 奈良県の近代紡績業は、明治16年(1883)創業の豊井紡績所にはじまる。
 政府は「殖産興業」のスローガンのもと、愛知と広島に官営模範工場として紡績所をつくった。つづいてイギリスから新しい紡績機10基を輸入し、おもな綿作地を選んで紡績工場をつくろうと考えた。
 旧小泉藩士で堺県勧業課長の経験もある前川廸徳は、葛下郡長尾村の椿本伊作、平群郡額田部村の篠織太郎らとともに紡績機の払いさげを求め山辺郡豊井村に紡績所をつくった。こうして豊井紡績所は国策に沿った「十基紡績」のひとつとして開業したのである。
 ところが営業成績はかんばしくなかった。最初は動力に水車を利用することを考え水車を設置したが、まもなく馬力不足であることがわかり、同17~18年ごろ、蒸気機関の併用に踏みきらねばならなくなった。石炭の入手は容易でなく、大阪から船で淀川・木津川をのぼり、さらに荷車で工場へ持ちこんだという。しかし、営業面での成果があがらないまま同32年には廃業に追いこまれた。(248-249頁)

「唐弓」を発明した大和の九介の物語(『日本永代蔵』より)

 大和が畿内でも有数の綿の産地であったことを示す一つの史料として、『日本永代蔵』に収められている「大豆一粒の光り堂」というお話を紹介します。『日本永代蔵』は、井原西鶴作の浮世草子で、町人物の代表作の一つです。貞享5年(1688年)に刊行され、各巻5章、全6巻30章の短編からなりますが、「大豆一粒の光り堂」は、その巻五に収められている第三のお話です。
 現在の天理市佐保庄町(H.A.M.A .木綿庵のある乙木町の隣の町内。直線距離で500mほどのところ)に、50歳過ぎまで小百姓として平凡に暮らしていた川端の九介(くすけ)という男がいました。その男が、節分の夜にまいた豆を翌朝に拾い集め、「ひょっとしたら炒り豆に花が咲くこともあるかもしれない」と思い、土に植えてみたところ、なんとほんとに花が咲き、実を付けました。そこで収穫したマメをまた翌年に蒔いて、10年かけて八十八石を収穫するまでになり、大金を得た九介は、初瀬街道に灯籠(光堂)を寄進します(この光堂は「五智堂」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。実際は鎌倉時代の建築。傘堂、マメ堂とも呼ばれています)。
 さらに田畑を買い求めて綿を植えとたころこれもよく育ちましたが、九介は働き者である上に、何事につけても工夫を怠らない男でしたのので、当時は効率の悪かった打ち綿の作業に用いる弓として、竹弓に代わる唐弓を発明します。この唐弓は、打ち綿作業に革命をもたらすほど画期的な発明となり、打ち綿の作業効率を飛躍的に上昇させました。やがて九介は大和では知らぬ者のない綿商人となり、八十八歳で亡くなった、というお話です。
 実際に、唐弓の発明・導入は、打ち綿という作業の効率化に大きな影響を及ぼしましたが、その唐弓を発明した人間が、江戸時代前期の文学作品において「大和の九介」であったと設定されているところに、綿の主産地としての大和の位置づけを伺い知ることができる、とは言えないでしょうか。
 なお、本文については新潮社『日本古典集成』と、小学館『日本古典文学全集』をご参照ください。
 ※『日本古典集成』(PDF)
 ※『日本古典文学全集』(PDF)

参考文献について

 日本の綿作り、大和国(奈良県)の綿作りについて調べる上で、参考になると思われる資料を以下にまとめておきたいと思います。ここには、現時点(平成27年7月5日)で実際に確認できた文献しか取り上げていません。今後、順次加えていくことができればと考えております。
 なお、WEB上の各種サイトも大変参考になるのですが、ここでは紙媒体の資料に限定させていただきました。
・柳田国男『木綿以前のこと』(岩波文庫、1979) ※発表は1939年
・吉村武夫『綿の郷愁史』(東京書房社、昭和46年/1971)
・永原慶二『新・木綿以前のこと ― 苧麻から木綿へ』(中公新書、1990)
・武部善人『日本木綿史の研究』(吉川弘文館、昭和60年/1985)
・奈良県『青山四方にめぐれる国-奈良県誕生物語-』(奈良県発行、昭和62年/1987)
・武部善人『綿と木綿の歴史』(お茶の水書房、1989初版、1997新装版)
・奥田修三「近世大和の綿作についてー畿内綿作におけるその地位ー」大阪歴史学会編『ヒストリア』第11号(1955年)
・朝倉 弘「近世初期の大和の綿作について」『国史論集(二)』(京都大学読史会、1959)
・谷山正道「近世大和における綿作・綿加工業の展開」『広島大学文学部紀要』第43号(1983年)
・岩崎公弥「明治期奈良盆地における綿作率の地域差と灌漑条件との関係」『愛知教育大学研究報告』第47号(1998年)

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