綿の歴史
綿の栽培と利用は世界ではきわめて古くから行われていたことは間違いありませんが、その起源については必ずしもはっきりとしていません。文献によってもまちまちで、WEB上の資料も参考にするならば約8000年前とするものから約5000年前とするものもあります(『もめんのおいたち』P105参照)。考古学上の研究成果によって現在進行形で時代が遡っていっているのかもしれません。
日本の綿の歴史については、8世紀末に一度伝来したにもかかわらず定着せず、戦国時代以降に急速に全国に普及したという点では、おおむね各文献、資料ともに共通しています。ただし、細かな点ではやはりそれぞれの内容に差が見られます。
そこで、以下の項目では上記の点を踏まえて、記述にあたっては依拠する資料を明記するように心がけています。
世界の綿
インドでは古くから綿が栽培され、モヘンジョ・ダロの遺跡からは紀元前2500年-同1500年の綿布が発見されています。インドの綿製品はその後、アラビア商人によってヨーロッパにもたらされました。インドに次いで古くから綿が栽培されたのはアラビアで、ヨーロッパに綿の種子が伝えられたのはアレクサンドロス大王の東征(紀元前327年)によってであると考えられています。
エジプトは綿の主産地の一つですが、紀元前200年よりも以前には綿を利用した証拠が発見されておらず、現在のエジプト綿は13~14世紀に栽培が始まったとされています。
南アメリカの綿は、ペルーで紀元前1500年頃から利用されており、ブラジルでも古くから原住民によって利用されてきた歴史があります。
中央アメリカでは紀元前632年に綿が利用されていた記録があります。
アメリカ合衆国の綿は、イギリスがパナマで栽培したインドの綿が、1740年頃にバージニア地方に伝わって栽培されるようになったものです。
中国へは後漢の57~75年頃にインドから綿布がもたらされました。綿の種子は10世紀に伝えられましたが当初は観賞用で、本格的な栽培は南宋の1125~1162年頃に始まったと考えられます。
日本で綿が初めて栽培されたのは、桓武天皇の延暦18年(799年)、三河国に漂着したインド人がもたらした種子によるとされています(『日本後紀』)。しかし、この種子は1年で絶えてしまい、その後なん回か種子が渡来して栽培されましたが定着しませんでした。日本の綿の歴史は比較的浅く、全国に急速に普及するのは戦後時代以降、経済的栽培が始まったのは16世紀に入ってからでありました。( 以上、平凡社『大百科事典』第15巻(1985年発行)1355頁参照 )
ワタは紀元前5800年ころのメキシコの遺跡から果実が発掘されている。またペルーでも前2400年のワカ・プリエタ遺跡から織物の破片が発見されている。一方インドのモヘンジョ・ダーロ遺跡の前3500年の地層から綿糸が発掘されている。これらのことから、ワタは古代から人間に利用されており、しかもインドとペルーでそれぞれ独自に利用され、織物がつくられていたことが明らかである。
インドは紀元前数世紀から綿産国としてヨーロッパにまで知られ、その後東南アジア、アラビア、アフリカ、南ヨーロッパにワタ作が広まった。エジプトでは古代から繊維作物としてアマがつくられていたが、紀元のすこし前ころからワタが利用されるようになった。中国には後11世紀ころから重要な作物として、とくに華中・華南に栽培されるようになった。
アメリカ大陸ではコロンブスが来航した時代には、すでに中南米、西インド諸島一帯にワタが栽培されていた。そして西欧人の手によってカリブ海諸島のワタすなわちカイトウメンが、西アフリカやスーダンに伝えられ、エジプトメンが誕生した。一方、南アメリカのペルーなど内陸地のワタ、すなわちリクチメンは18世紀に入ってアメリカ合衆国に入った。おりしも1793年にホイットニーが繰綿機を発明したことにより、イギリスのランカシャーに大紡績業がおこり、アメリカ合衆国は原綿の供給地として大規模な企業栽培が行われた。以後リクチメンは世界各地の熱帯、亜熱帯諸国に広まって生産されるようになった。
日本へのワタの伝来は、8世紀末と古い。しかしそれは栽培が定着せず、その後16世紀末に中国、朝鮮から種子が導入されたことにより九州で栽培が始まり、しだいに関東地方にまで広まった。
( 以上、小学館『日本大百科全書』第24巻(1988年発行) 795-796頁より引用 )
日本の綿
日本に初めて綿が伝来したのは8世紀末とされています。その根拠は、『類聚国史』にあります。そこには延暦18年(799年)に、崑崙人が三河国に漂着して綿種を伝え、その翌年に朝廷は綿の種子を紀伊などの国々に配り、試植させたことが記されています。
『類聚国史』とは、編年体である六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)の記載を中国の類書にならい分類再編集したもので、菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した歴史書です。史料価値は高く、これが日本に綿が伝来した最初とされています。
しかし、このときに各地に植えられた綿の種子は定着することなく途絶えてしまいます。
その後、日本にいつ頃からどのようにして綿製品が伝来し、国内での栽培が行われるようになったかについては、まだ研究段階にあるようです。
そこで、以下の項目については、おもに永原慶二氏の2つの著作、『新・木綿以前のこと-苧麻から木綿へ』(中公新書963、1990年発行)と「綿作の展開」『講座・日本技術の社会史』第3巻「紡績」(日本評論社、1985年発行)所収に拠っていることを最初に明記しておきます。
輸入木綿の時代 鎌倉~室町時代
文献上に「木綿」が現れはじめるのは鎌倉時代以降(編註:いわゆる現在の木綿の意味で用いられる例。絹を指すと思われる奈良時代の「木綿」の例は除く)で、もっとも古い例として1204年の高野山金剛峯寺関係の記録が残っています。寺院や寺僧関係が使用した繊維品の中に、綿が用いられるようになったとも考えられます。しかし、この頃の「木綿」がそのまま後の草木綿と共通するものかどうかは確定が難しく、史料上、いわゆる「木綿」が散見されるようになるのは14世紀中頃以降、すなわち南北朝、室町期に入ってからです。
もちろんこの頃の木綿はすべて輸入品であり、1406年に室町幕府が朝鮮国王に派遣した使節たちに与えられた賜物の中にも、青木綿や綿子が見えます。そして、この頃から朝鮮木綿に対する日本側の関心と需要が急速に高まっていきました。
室町時代中期に入って日本側の木綿需要が急激に高まりだしたのは、木綿のよさの一般的認識のひろまりばかりではなく、それが兵衣として抜群の性能を持つことが認識されるようになったからであると考えられます。応仁の乱(1467-1477年)はその状況に拍車をかけ、幕府をはじめ各地の戦国大名たちは競って朝鮮から木綿を輸入するようになります。
そして、朝鮮国内で木綿が深刻な品不足に陥ると、朝鮮側は木綿価格を引き上げたりしながら輸出制限をかけるようになり、日本ではその対応策として中国からの輸入をはじめるようになります。16世紀の後半には輸入木綿では中国木綿が朝鮮木綿を上回る水準に達していたとみられています。
こうして、木綿は当初、貴族社会においては高級布地として珍重される一方、民衆の衣料素材としてというより、軍用に不可欠な素材(兵衣、幔幕、火縄等)として急速に広まっていったと考えられます。
(以上永原慶二『新・木綿以前のこと』54-70頁。永原慶二「綿作の展開」71-73頁参照)
国産木綿の時代 戦国~江戸時代
木綿関係資料で、国内生産を確証するもっとも古い史料として1494年に越後の上杉房定が毛利重広に宛てた安堵状と、「文亀二年(1501年)四月十九日」という年月日が記されている武蔵国越生郷上野村聖天宮社の棟札があります。前者には「みわた(実綿)」の文字が見られ、後者には「木綿一反」を奉納したことが記されています。そして、この頃から各地に綿作を伺わせる文献史料が散見されるようになり、こうしたことから15世紀末~16世紀中頃が日本における綿作、綿業の開始期と考えられます。
しかし、どの地方から綿作がはじまったのかについては実はよくわかっていません。一般には三河発祥地説が有名ですが、延暦年間の崑崙人漂着の記事はそのまま綿作に結びつくものではなく、史料的には三河地方より早くに綿作が行われていたことを示す例が各地にあります。三河地方も早くから綿作が行われていた有力な産地であったことは間違いないとしても、実際はそれと平行して広く各地でほぼ時期を同じくして栽培が行われるようになったのではないかと考えられます。
そして、その後は綿作、綿織物の国内生産は比較的短期間のうちに東北の一部をのぞいてほぼ全国に広まり、自給的目的による栽培とともに、商品作物としての栽培が行われるようになっていきました。
こうして、江戸時代以前には西は九州から東は関東に至るまで、おそらくほとんどの地域で綿栽培、木綿織は展開していたと考えられ、その後、江戸時代をとおして深く庶民の生活に浸透し、その製品の流通は産業構造や経済史的にも大きな影響をあたえることになっていきました。
(以上永原慶二『新・木綿以前のこと』72-106頁。永原慶二「綿作の展開」74-88頁参照)
「おそらく日本の国内における木綿栽培は、九州からはじまったであろう。しかしそれはかつて稲作が北九州から逐次東方に広まっていったのと同じような足どりをとったわけではあるまい。そうではなく、ほとんど同時的に、各地に併行して種子が伝わり、そこここで綿作が行われるようになったのではないか。その際、北陸・東北方面が立ちおくれていたことは事実だが、全体として国内木綿の栽培の開始と広まりを、江戸時代前期中心に見る通説的理解は訂正される必要がある。実際はそれよりも早く、16世紀中における展開の度合いを、これまでよりは大きく評価すべきであると考えられるのである。」 (永原慶二『新・木綿以前のこと』104頁)
木綿以前の時代 古代~鎌倉時代
木綿が身近な衣料素材として普及するようになる16世紀頃まで、庶民が身につけていた素材はおもに麻、絹でした。ただし、それだけではありません。古代、中世を通じて民衆衣料の素材とされたのは麻、絹のほかに藤や葛、楮(こうぞ)などからとった繊維もありました。『日本書紀』などの古代の文献に「木綿(ゆふ)」とあるのは、現在の木綿ではなく、楮からとった糸と考えられています。また、古代から中古にかけては、「綿」「真綿」とは絹糸のことを指していました。
とくに麻の原料となる植物は苧麻(ちょま)と呼ばれ、イラクサ科に属する多年草で、山野に自生し、至る所で手に入ったそうです。それを畑に植えて栽培し、主要な衣料原料としていました。現代の感覚からすると「麻」には高級感がありますが、夏ならともかく、冬の素材としては不向きです。しかし、木綿(もめん)がなかった時代にはそれしかなかったわけですから、寒い季節には何枚も重ね着をして寒さをしのぐしかありませんでした。
日本に木綿製品が伝来するのは14世紀以降ですが、なぜ朝鮮や中国からもっと早くに伝来しなかったのか。素朴な疑問が湧いてきます。実は朝鮮半島に木綿の種子が伝来したのは、14世紀後半の高麗末期であったようです。高麗の恭愍王(1352-1374在位)の13年、元朝に送られた使者が、帰路、中国で木綿を見てその種子を持ち帰ったのが発端となり、それから10年ほどのうちに朝鮮国内に広まったといわれています。
また、中国で木綿の栽培と綿布の生産が行われるようになるのは唐の頃であり、宋末から元初の頃には江南にまで広まっていたものの、本格的に木綿栽培が発展期に入るのは14世紀末から15世紀初頃であったようです。 (以上、永原慶二『新・木綿以前のこと』58-63頁参照)