大和(奈良県)の綿作

大和(奈良県)の綿作

 大和国(奈良県)では、江戸時代以前の元亀・天正頃(安土桃山時代)からすでに木綿栽培が盛んに行われていたことが文献の上からもはっきりとしています(朝倉弘「近世初期の大和の綿作について」京都大学文学部読史会編『国史論集二』所収、1959年)。 江戸時代の初期(1645年)に成立した『毛吹草(けふきぐさ)』という書物の中でも、大和の名物として早くも「郡山の繰綿」が取り上げられています。
 畿内では、その後、河内、和泉、摂津が木綿栽培、紡績、織布の先進地帯として発展していくことになりますが、大和地方もそれらと並ぶ綿の産地として展開していくことになります。

農業用水不足の解決策としての綿花栽培

 大和の国中(くんなか・平地部分、奈良盆地)で盛んに木綿が栽培されるようになった背景には、農業用水の不足があったと考えられています。
 奈良盆地はもともと雨が少なく、その深刻さは「大和豊年米食わず」という言葉に象徴されています。つまり、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年であり、他の地方が豊作であれば大和は干ばつに苦しむという意味です。そのため、大和盆地に暮らす人々は古代からさまざまな工夫を重ねてきました。戦後まで数多く残っていた溜め池もその一つです。また、「隠し井戸」と呼ばれる農井戸(のいど)もその一つで、普段は蓋をして土で隠しておき、水不足に陥るとその蓋をあけて用水として利用するというものです。
 さらに、天理近辺では水源とする河川が布留川しかなく、その布留川を幾筋にも分岐させて支流をつくり、下流の村々に水を配分していた歴史があります。そこには、水をめぐる戦いの歴史があり、水利権に関しては厳格な取り決めがあって、現在でも行われている「大川浚え(おおかわざらえ)」という行事にその名残をみることができます。
 ※天理市域における水利水論の歴史は『改訂天理市史(上)』(P265-282)に詳しく記されています。  
 そして、限られた用水を有効に活用する手段の一つして、綿づくりが推奨されたと考えられるのです。『青山四方にめぐれる国-奈良県誕生物語-』(昭和62年、奈良県発行)には、以下のよう記されています。

 大和の農業の最大の特徴は土地の生産力が高いことである。古くからかんがい施設が整い、干鰯・油かすなどを多量に使い、効率的な農業をおこなってきた結果である。こうした土地で、江戸時代には米・麦のほか、商品作物として綿花・菜種・茶・たばこなどを盛んに栽培していた。雨の少ない奈良盆地では水田のすべてに稲を植えつけると農業用水が不足するため、その解決策として綿と稲とを1年ごとに交代で植えつけ、裏作には麦・菜種などを栽培した。綿花・菜種の生産量は多く、江戸時代から明治初期にかけて指折りの産地として知られた。
 ところが幕末の開港以来、外国産の安価で良質な綿糸・綿花が入ってくると、大和の綿作は衰退に向かい、明治20年代に入るとほとんど姿を消してしまうのである。(243~244頁)

 また、『教祖の御姿を偲ぶ(下)』(道友社 昭和40年再版)という書物には、昭和20年代の天理在住の市民の語り伝えとして、以下の内容が紹介されています

 「教祖のお神がかり以前のことを、私の祖母お信がよくいつておりました。昔、中山さんの綿畠が今の上之郷詰所のところあたりにあつて、教祖は夕方まで綿摘みをしておいでになり、北田と畠が隣同志だもんでよく話をしたそうです。祖母は大へん美しい優しい方じやつたと、いつておりました。
 この辺は、みな、藤堂家の領分でありまして、今では綿の木なんか見とてもありませんが、昔は、一町百姓に綿三反、二町百姓に綿六反といつて、強制的に綿をたくさん作らせました。」
 右は、昭和二十三年十月五日、当時八十三才の、三島北田竹松さんのお話である。」(86頁)

 ちなみに、ここに出てくる「教祖」とは天理教の教祖「中山みき(1798-1887)」を指しており、「上之郷詰所」とは、現在の三島町130番地あたり、国道169号線の北大路交差点を南に100メートルほどのところにあたります。
 ※奈良県における明治20年代以降の綿作の衰退については、『改訂天理市史(上)』(P399)にも具体的に記されている。

近世の大和の綿作について(史料に基づく論文より)

 江戸時代の大和の綿作の状況について、参考になると思われる論文を4編紹介させていただきます。検地帳その他の史料に基づいて詳しい考察がなされており、各編ともとても興味深い内容になっています。
 1つ目は、奥田修三氏の「近世大和の綿作についてー畿内綿作におけるその地位ー」という論文です。大阪歴史学会編『ヒストリア』第11号(1955年)に収められています。
 従来の研究が、幕末ー明治初期の綿作状況の分析によって、近世畿内綿作の全体を解明しようとしてきた傾向にあることを指摘された上で、大和綿作の畿内における地位の低さは、必ずしも近世全般にあてはまるわけではないことを明らかにされた論文です。畿内における綿作の先進地域はむしろ大和や山城にあり、それが摂津、河内へと広まっていった点について考察されています。そして、なぜ18世紀以降に大和の綿作が衰退に向かうのか、その理由についても詳しく考察が加えられています。
 2つ目は、朝倉弘氏の「近世初期の大和の綿作についてー中部大和の場合ー」という論文です。京都大学読史会編『国史論集(二)』(1959年)に収められています。
 上記の奥田修三氏の論文がおもに北和地域の史料に基づいてなされていること、また近世中後期に重点が置かれていることを踏まえた上で、近世初期の中和地域における史料に基づき、当時の綿作のあり方について考察を加えられています。そして、現在の奈良県大和高田市根成柿にあたる、根成柿村の検地帳その他の史料から、大和では近世初頭からすでに商品作物として綿の栽培が行われていたことが伺い知れること、また、初期の段階では「用水不足の解消」が必ずしも綿栽培の主な理由であったとは考えられないことについて論じられています。「田方綿作(元来は田である土地に綿を植える)」と「畑方綿作(もともと畑である土地に綿を植える)」の作付率の比較から考察を試みる手法は奥田氏と共通しており、「大和の場合、近世中後期の綿作は田方が一般的であるが、その理由は一応用水不足の解決策にあると考えられる。」としながら、「之にたいして近世初期の綿作は根成柿・四條の場合畑方が一般的であること前述したごとくである。すなわち用水不足とは一応関係がなかったと考えられる。この点において大和では近世初期と中後期とでは綿作付の行なわれた理由において相違が考えられなければならない。」と指摘されています。
 3つ目は、谷山正道氏の「近世大和における綿作・綿加工業の展開」という論文です。『広島大学文学部紀要』第43号(1983年)に収められています。
 上記の奥田、朝倉両氏の研究をはじめ、それ以降に発表された論考を踏まえながら、近世大和の綿業の動向全般に再検討を加えつつ、近世大和の綿作およびその流通、加工の動向について考察を加えられています。
 4つ目は、岩崎公弥氏の「明治期奈良盆地における綿作率の地域差と灌漑条件との関係」という論文です。『愛知教育大学研究報告』第47号(1998年)に収められています。
 大和における綿作と、灌漑施設との関係について論じられたもので、「大和の綿作が『からけ作』と呼ばれる大和独特の節水農法によって支えられていたことは周知のところである。」と指摘された上で、灌漑施設が比較的整っており、用水が安定している地域と、そうでない地域との綿作率の差を、データに基づいて明らかにされた論文です。
 18世紀以降に大和の綿作が衰退していく一つの要因として、「田方綿作を途絶させるような用水条件の改善があったと想定せざるを得ない」と指摘されています。「灌漑条件」という、先行研究とは異なる視点からのアプローチがユニークで興味深い論文となっています。

大和国の綿作について(江戸時代の農業書『綿圃要務』より)

 江戸時代の各地の綿作の状況について記した書物として、『綿圃要務(めんぽようむ)』が知られています。大蔵永常が著したもので、江戸時代後期の天保4 (1833) 年刊。綿花栽培の技術書で、栽培技術やおもに畿内と中国地方の栽培事情について述べています。
 上下巻からなり、上巻では、顕微鏡まで用いて形態を図解した上で、気候適性、品種分類、種子の扱い・播種法、油糟や干鰯など肥料の種類と与え方、綿摘みなど、イラスト付きで解説してくれています。下巻では、主要産地の畿内、山陽の綿栽培を具体的に解説するとともに、品質の判別基準についても紹介しています。
 著者の大蔵永常(1768-1860)は、豊後国日田郡隈町(現在の大分県日田市)の出身です。町家に奉公していた大蔵は、天明の大飢饉に苦しむ農家を目のあたりに見聞し、暮らしの安定には換金作物の普及が重要と感じて農学を志したと伝えられています。
 以下に、『綿圃要務』の中から、おもな部分をPDFで紹介します。
 ※「大和国の綿作り」『綿圃要務』(PDF)
 ※「総論、綿の種類」『綿圃要務』(PDF)
 ※「綿の栽培」『綿圃要務』(PDF)
 ※「綿品質の善悪について」『綿圃要務』(PDF)

大和絣と近代紡績のこと

 早くから綿づくりが行われていた大和では、織物の生産も盛んに行われるようになり、江戸時代の中頃には「大和絣」が生まれ、次第に全国に知られるようになっていきました。
 『青山四方にめぐれる国-奈良県誕生物語-』(昭和62年、奈良県発行)には、次のように記されています。

大和絣の盛衰

 江戸時代からの綿花の産地であった大和では、綿織物の生産が盛んであった。宝暦年間(1751~64)、御所の浅田松堂が松阪木綿の技術を取り入れてはじめた大和絣は、かすり模様のざん新さと天然の藍から取った正紺の美しさが評判となって販路を広げた。明治になって国産の綿作がふるわなくなってからは輸入の綿花や綿糸を用い、織機に改良を加えながら生産は順調に伸びつづけた。
 ところが明治10年代に入ると一部の心ない業者が泥紺と呼ばれる染料を使い、質の悪い製品を売り出したため大和絣の評価はしだいに下がった。そのころ正紺を用いた大和絣でも阿波縮とか河内木綿など別の産地の名をつけなければ売れなかったといわれる。
 明治16年(1883)、大阪府は品質改良のため、木綿商・織屋が団結して仲間規約をつくるよう命じた。これに応じて大和木綿業組合が結成されるのだが、泥紺が追放され大和絣が信用を回復するのは奈良県再設置後まで待たなければならなかった。(247-248頁)

近代紡績業のめばえ

 大和絣の生産が活発であった背景に紡績の盛んであったことをみのがすわけにはいかない。
 天保4年(1833)に出された大蔵永常の『綿圃要務』という本の中には「大和国では女だけでなく男も40~50歳より上の人は家内にいて多く糸をつむぐ」としるされており、農家の副業として手紡ぎが盛んであったことがわかる。
 奈良県の近代紡績業は、明治16年(1883)創業の豊井紡績所にはじまる。
 政府は「殖産興業」のスローガンのもと、愛知と広島に官営模範工場として紡績所をつくった。つづいてイギリスから新しい紡績機10基を輸入し、おもな綿作地を選んで紡績工場をつくろうと考えた。
 旧小泉藩士で堺県勧業課長の経験もある前川廸徳は、葛下郡長尾村の椿本伊作、平群郡額田部村の篠織太郎らとともに紡績機の払いさげを求め山辺郡豊井村に紡績所をつくった。こうして豊井紡績所は国策に沿った「十基紡績」のひとつとして開業したのである。
 ところが営業成績はかんばしくなかった。最初は動力に水車を利用することを考え水車を設置したが、まもなく馬力不足であることがわかり、同17~18年ごろ、蒸気機関の併用に踏みきらねばならなくなった。石炭の入手は容易でなく、大阪から船で淀川・木津川をのぼり、さらに荷車で工場へ持ちこんだという。しかし、営業面での成果があがらないまま同32年には廃業に追いこまれた。(248-249頁)

「唐弓」を発明した大和の九介の物語(『日本永代蔵』より)

 大和が畿内でも有数の綿の産地であったことを示す一つの史料として、『日本永代蔵』に収められている「大豆一粒の光り堂」というお話を紹介します。『日本永代蔵』は、井原西鶴作の浮世草子で、町人物の代表作の一つです。貞享5年(1688年)に刊行され、各巻5章、全6巻30章の短編からなりますが、「大豆一粒の光り堂」は、その巻五に収められている第三のお話です。
 現在の天理市佐保庄町(H.A.M.A .木綿庵のある乙木町の隣の町内。直線距離で500mほどのところ)に、50歳過ぎまで小百姓として平凡に暮らしていた川端の九介(くすけ)という男がいました。その男が、節分の夜にまいた豆を翌朝に拾い集め、「ひょっとしたら炒り豆に花が咲くこともあるかもしれない」と思い、土に植えてみたところ、なんとほんとに花が咲き、実を付けました。そこで収穫したマメをまた翌年に蒔いて、10年かけて八十八石を収穫するまでになり、大金を得た九介は、初瀬街道に灯籠(光堂)を寄進します(この光堂は「五智堂」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。実際は鎌倉時代の建築。傘堂、マメ堂とも呼ばれています)。
 さらに田畑を買い求めて綿を植えとたころこれもよく育ちましたが、九介は働き者である上に、何事につけても工夫を怠らない男でしたのので、当時は効率の悪かった打ち綿の作業に用いる弓として、竹弓に代わる唐弓を発明します。この唐弓は、打ち綿作業に革命をもたらすほど画期的な発明となり、打ち綿の作業効率を飛躍的に上昇させました。やがて九介は大和では知らぬ者のない綿商人となり、八十八歳で亡くなった、というお話です。
 実際に、唐弓の発明・導入は、打ち綿という作業の効率化に大きな影響を及ぼしましたが、その唐弓を発明した人間が、江戸時代前期の文学作品において「大和の九介」であったと設定されているところに、綿の主産地としての大和の位置づけを伺い知ることができる、とは言えないでしょうか。
 なお、本文については新潮社『日本古典集成』と、小学館『日本古典文学全集』をご参照ください。
 ※『日本古典集成』(PDF)
 ※『日本古典文学全集』(PDF)

幕末から維新期の大和の綿作 ― 参考文献の紹介をかねて ―

 大和国(奈良県)の綿作について調べる上で、参考になると思われる文献の紹介をかねて、以下に論文の抜粋を掲げます。

研究論文 梅田正之「教祖伝の時代と大和の綿作」『天理教校論叢』第46号所収(令和3、2021年 天理教校本科研究室編)より

『天理教校論叢』は、天理大学附属天理図書館にて閲覧が可能です。
下記は上記論文の提出原稿の抜粋です。本来は縦書きの原稿を横書きに書式変換しています。
本文を参照されるにあたっては、まず以下の文章にお目通しください。

『論文をお読みいただく前に』 (PDF)

本文抜粋と註抜粋は、以下の通りです。      

「教祖伝の時代と大和の綿作」本文/抜粋
「教祖伝の時代と大和の綿作」註/抜粋

以下に、その一部を紹介させていただきます。

 「教祖伝の時代と大和の綿作」『天理教校論叢』第46号より                   

 【本文】 
 一、大和の綿作の歴史

 教祖伝の時代、すなわち江戸時代から明治時代の中頃にかけて、大和においては綿作がさかんに行われていた。そこでまず、大和における綿作の歴史について概観しておきたい。

     1、はじまりから幕末開港まで

 日本で綿の栽培が行われるようになったのは一五世紀末から一六世紀にかけてである。綿の国内栽培によってもたらされた木綿製品は、従来の民衆の衣生活を大きく変えることになった。それまでの麻をはじめとする綿以外の植物繊維では得られなかった着心地、保温性、吸湿性、加工のしやすさ、シルエットの美しさが人々に受け入れられ、染付けもよく丈夫な木綿は貴重な衣料素材として急速に庶民の間に広まっていった。綿の栽培は次第に全国に広がり、糸紡ぎや機織りは、農家の女性にとっては日々の暮らしに欠かすことのできない生活技術となった。綿花の需要はいくらでもあり、やがて綿は商品作物としてさまざまな形に加工され、流通し、江戸時代を通じて日本の農業や農村を含めた社会、経済構造そのものにも大きな影響を与えることになっていった(1)。
 日本国内で綿の栽培がはじまった当初、栽培先進地域の畿内において大和もその一つであり、正保二年(一六四五)に刊行された『毛吹草』に、すでに大和の特産品の一つとして「郡山繰綿(コホリヤマノクリワタ)」が取りあげられている。
 また、貞享五年(一六八八)に成立した井原西鶴作の浮世草子である『日本永代蔵』では、第五巻の第三「大豆一粒の光り堂」において、綿の重要な加工道具である唐弓(とうゆみ)を初めて作り出したのが、「朝日の里」(現在の奈良県天理市佐保庄町)に住む川端の九介という男の設定で物語が描かれている。天保四年(一八三三)に刊行された大蔵永常『綿圃要務』には「此綿を作る事ハ大和国に始て作り」(『日本農書全集』第一五巻、農山漁村文化協会、一九七七年、三二九頁)と記されている。これらの記述はいずれも大和がはやくから綿の産地として知られていたことを示す資料と言える(2)。
 その後、江戸時代の大和ではさかんに綿作が行われ、一八世紀の中頃には綿は「和州第一之売物」といわれるまでになる。江戸時代前期においては郡山、丹波市、田原本、今井、高田等の商人、問屋によって大和の繰綿が関東はじめ諸国へ販売された(3)。
 大和において綿作が隆盛し定着した理由の一つには、灌漑用水の有効活用があった。もともと雨の少ない大和ではつねに水不足に悩まされていたが、綿の栽培には大量の用水を必要としない。そこで、稲作と綿作を一定の割合で交互に行う田畑輪換によって、水不足の解消をも図ったのである(4)。
 江戸時代の中期をピークにその後大和の綿作は全体としては停滞・衰退に向かうものの、地域によっては幕末の開港前まで高い綿作率を示していた。「山辺・式下・十市・葛下郡村々では、漸減の傾向を示しつつも、開港前までなおかなり高い綿作率を維持している。」(谷山正道「近世大和における綿作・綿加工業の展開」『広島大学文学部紀要』第四三巻、一九八三年、一一頁)と記されている通りである。庄屋敷村、三島村は山辺郡にあたる。
 一方で紡糸・製織という木綿織物業が次第に発展していくことになる。大和の綿は糸紡ぎには不向きとされたが(5)、地元ではその綿を用いて糸を紡ぎ、木綿布を織り、その糸や織布が自家用にとどまらず商品として取り引きされるようになっていった。一八世紀後半には大和絣が考案され、大和の木綿織物業が一層の発展を見せていく(6)。

     2、明治政府の施策と豊井紡績所

 幕末の開港を経て明治時代を迎え、外国産の安価で良質の綿布綿糸が大量に輸入されるようになると、新政府は輸入超過を抑制する上から外国産綿種の国内栽培を模索する(7)。これは日本の綿作農家を守るためでもあった。また、殖産興業政策の一環として綿糸紡績業育成を掲げ、国産綿を主原料とする紡績所の建設を民間に促し、日本全国に一〇箇所設立する計画をたてた。その一つが、大阪府下大和国山辺郡豊井村(現在の奈良県天理市豊井町。布留川上流の滝本辺り)に建設された豊井紡績所である。政府がイギリスから購入した二千錐紡績機(にせんすいぼうせきき)を破格の条件で民間に払い下げて推し進めた事業である。全国で一〇箇所が選ばれたために「十基紡績所(じっきぼうせきしょ)」「十基紡(じっきぼう)」と呼ばれ、二千錐紡績機を用いたことから「二千錐紡績所」とも呼ばれた(8)。以下の一〇箇所である。
  玉島紡績所  岡山県 備中国浅口町玉島町    明治一五年設立 
  下村紡績所  岡山県 備前国兒島郡鴻村     明治一五年設立
  川島紡績所  三重県 伊勢国三重郡川島村    明治一五年設立
  佐賀物産会社 佐賀県 ※佐賀の乱の影響により会社解散、開業に至らず
  市川紡績所  山梨県 甲斐国西八代郡市川大門村 明治一五年設立
  豊井紡績所  大阪府 大和国山辺郡豊井村    明治一六年設立
  長崎紡績所  長崎県 肥前国長崎浦上山里村   明治一六年設立
  島田紡績所  静岡県 駿河国志太郡島田村    明治一七年設立
  遠州紡績会社 静岡県 遠江国盤田郡二俟町    明治一八年設立
  下野紡績所  栃木県 下野国芳賀郡大内村    明治一八年設立
 いずれも綿の栽培が盛んな地域が近くにあることと、水力発電が可能な土地であることが選考条件の一つとされた。設立にあたって政府は資金面のみならず、原動機の供給や工場建設・機械据付けに際して官員技術者を派遣するなど手厚く支援した。
 「豊井紡績所」については、絹川太一『本邦綿絲(めんし)紡績史』第二巻(日本綿業倶楽部、一九三七年)の「第十一章 豊井紡績所」(三二七~三六七頁)に詳しい。 

【註】

1、日本における綿の栽培と普及の歴史、社会に及ぼした影響等についてはこれまでに多くの研究成果が発表されている。栽培の起源については文献によって多少異なる見解がみられ、本稿ではおもに永原慶二『新・木綿以前のこと』(中公新書、一九九〇年)、同『苧麻・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、二〇〇四年)、柳田國男『木綿以前の事』(岩波文庫、一九七九年)に拠った。
2、『日本永代蔵』第五巻の第三「大豆一粒の光り堂」の記述に関して、『天理市史 史料集』(一九五八年)の小字名一覧には、佐保庄に「朝日」、「川畑」の小字が見える(五七八頁)。ただし、唐弓そのものは外国から伝来した物であることは間違いなく、この物語は創作である。
 また、日本に初めて綿が伝来したのは八世紀末とされており、『類聚国史』巻一九九「崑崙」の項に、延暦一八年(七九九)に小船が参河国(三河国)に漂着して綿種を伝え、その翌年に朝廷は綿の種子を紀伊などの国々に配り、試植させたことが記されている。しかし、このときに各地に植えられた綿の種子は定着することなく途絶えとされている。その後、戦国時代以降に全国に広まった綿栽培の起源と展開については諸説があり、はっきりしていない。この点について註1『新・木綿以前のこと』には、「おそらく日本の国内における木綿栽培は、九州からはじまったであろう。しかしそれはかつて稲作が北九州から逐次東方に広まっていったのと同じような足どりをとったわけではあるまい。そうではなく、ほとんど同時的に、各地に併行して種子が伝わり、そこここで綿作が行われるようになったのではないか。その際、北陸・東北方面が立ちおくれていたことは事実だが、全体として国内木綿の栽培の開始と広まりを、江戸時代前期中心に見る通説的理解は訂正される必要がある。実際はそれよりも早く、十六世紀中における展開の度合いを、これまでよりは大きく評価すべきであると考えられるのである。」(一〇四頁)と記されている。
 『日本永代蔵』に記されている唐弓の話や、『綿圃要務』に記されている綿栽培の大和起源説は、大和が早い段階から綿作がさかんに行われていた土地として知られていたことを物語る一つの資料と言える。
3、近世初期の大和の綿作については、奥田修三「近世大和の綿作について」(『ヒストリア』第一一号、大阪歴史学会、一九五五年)、朝倉弘「近世初期の大和の綿作について」(『国史論集』第二巻、京都大学読史会、一九五九年)参照。
 江戸時代をとおしての大和における綿作の推移や綿の流通については、谷山正道「近世大和における綿作・綿加工業の展開」(『広島大学文学部紀要』第四三巻、一九八三年)、森本育寛「織豊期における大和の綿作と繰綿の流通」(『封建社会と近代―津田秀夫先生古稀記念』、同朋舎出版、一九八九年)、谷山正道「元禄・享保期大和の繰綿・木綿の流通構造」(『天理大学学報』第一六九輯、一九九二年)、谷山正道「安永期大和の綿国訴をめぐって」(『奈良学研究』第一五号、帝塚山大学奈良学総合文化研究所、二〇一三年)、谷山正道「幕末大和国における特産物の調査について」(『奈良学研究』第一七号、同、二〇一五年)参照。
 なお、近世綿作の研究については、岩崎公弥「近世綿作研究の動向と今後の課題」(『愛知教育大学研究報告』第三三号、一九八四年)が参考になる。
4、田畑輪換については、浮田典良「江戸時代の大和―村落における耕地と綿作」(『地理学評論』第三〇巻一〇号、日本地理学会、一九五七年)、德永光俊「近世大和の田畑輪換」(『日本史研究』第二〇三号、日本史研究会、一九七九年)、宮本誠『奈良盆地の水土史』(農山漁村文化協会、一九九四年)参照。なお、近世後期の大和における綿作が決して水不足解消のためのみに行われたわけではないという指摘もある。岡村光展「近世後期の大和綿作に関する一考察」(『地理学評論』第四八巻五号、日本地理学会、一九七五年)。
5、前掲『綿圃要務』には「大和国の綿、他国にてハ多く衾(ふとんなり)・衣類などの中入に用ひ、糸口にする事少く、糸口ハ多く河内綿・摂津綿を用ふ。是ハ其土地による事と見えたり。尤大和国にてハ専ら糸にひき、木綿を織なり。されどもいかなる事にか、河内・摂津ほどにはつよからず」(三九五頁)、「大和国の綿ハ糸口にハ悪しきとて、中入口にする也。いかにといふに綿堅く、毛太く」(四〇五頁)と記されている。
 なお、『日本農書全集』第一五巻に収められている岡光夫「『綿圃要務』解題」は、近世の綿作を理解する上でも参考になる。
6、大和絣は宝暦年間(一七五一~一七六三)に御所の浅田松堂によって創始されたと伝えられている。当時はまだ大和の綿作の最盛期にあったが、実綿や繰綿、あるいは白木綿の状態で取り引きされることが多かった。そこで、付加価値をつけていずれ地域の産業としたいということから考案されたという。その後、図案や織機、技法の研究開発が進められ、大和木綿、大和絣は大和を代表する産業へと成長していった。『御所市史』(一九六五年、一九三頁)、大和木綿同業組合『大和木綿沿革史』(刊行年記載なし、六頁)参照。
 なお、大和木綿、大和絣については天理大学附属天理参考館『大和もめん』(資料案内シリーズ、一九八一年)、奈良県立民俗博物館『大和がすり―郷土に育まれた染織』(特別展図録、一九九五年)、奈良県立民俗博物館『大和もめん』(特別展図録、二〇〇三年)参照。
7、明治初年における綿糸綿布の輸入量については、三瓶孝子『日本綿業発達史』(慶応書房、一九四一年)三六頁の第六表「明治初年綿関係輸入額表」参照。外国産綿種の栽培については、武部善人『綿と木綿の歴史』(御茶の水書房、一九八九年)に「執念をもって米国綿の試作につとめたが、結果は全国的に失敗におわったのである」(二〇八頁)とある。また前掲『日本綿業発達史』には「外来種は日本在来種と異なり、蒴が上向して開絮する特性ある為、日本の棉花開絮期の気候に適せず、ついに外棉種移植は失敗に帰した」(二九九頁)と記されている。
8、二千錐紡績所(十基紡)設立の経緯と成果の分析については、高村直助『日本紡績業史序説(上)』(塙書房、一九七一年)三九~五九頁参照。なお、開業に至らなかった佐賀紡績会社を除く九箇所の所在地と設立年は、名和統一『日本紡績業と原棉問題研究』(大同書院、一九三七年)九五頁、飯島幡司『日本紡績史』(創元社、一九四九年)一九頁を参考にした。全国の各紡績所については、絹川太一『本邦綿絲紡績史』全七巻(社団法人日本綿業倶楽部、一九三七~一九四四年)が詳しい。
 また、「豊井紡績所」については『奈良縣山邊郡誌(上)』(奈良縣山邊郡教育會、一九一三年)に、「本縣ニ於テ未ダ紡績業ノアラザル時前川迪徳獨力ヲ以テ布留川ノ水力ヲ利用シ今丹波市町大字瀧本ニ規模宏大ナル工場ヲ建テ夥多ノ職工ヲ役シ蒸汽機関ヲ備ヘ昼夜其業ヲ取リシモ時機早カリシ為メカ明治二十五六年頃遂ニ廃スルニ至ル然レドモ大和ニ於ケル紡績業ノ嚆矢タルヲ以テ特ニ記シタリ」(四七八頁)とある。「豊井紡績所」に関する先行研究については菊浦重雄「近代的紡績―豊井紡績所について」(『経済経営論集』第三四号、東洋大学、一九六四年 )が参考になる。『大和百年の歩み 政経編』(大和タイムス社、一九七〇年)二九一~二九五頁には、豊井紡績所の概略が記されている。
9、前掲註8『日本紡績業と原棉問題研究』に「明治一一―四四年日本内地棉花栽培面積及生産量推移表」( 一八一頁)、「明治二〇年・二四年全国各府県棉花作付段別及び実綿収穫量比較表」(一八二頁)が掲載されている。同表によれば明治二四年における奈良県の実棉生産量は全国六位に上昇している。
10、天理市域の綿の生産量については、『改訂天理市史』上巻(一九七六年)三九一~三九三頁、三九九頁参照。明治一四年頃の二階堂、朝和、丹波市、櫟本各地区における生産量が記されている。
11、明治政府が推し進めた国産綿を主原料とする綿糸紡績業は、その後に行き詰まる。需要の増大に国産綿の供給が追いつかず、しかも国産綿による手紡ぎ糸や紡績糸が、外国産綿による紡績糸(輸入綿糸を含む)に対して高価であったためである。輸入綿糸、外国産綿を原料とする紡績糸の方が圧倒的に安価で品質は安定していた。また、国産綿は質的に手紡ぎには適しても紡績用原綿には不向きであるとされ、紡績機のトラブルに適切に対処できる熟練技術者も育っていなかった。国産綿を主原料とする紡績業育成という政策は当初より種々の課題を抱え、「二千錐紡績の多くが失敗に終った」(註8『日本紡績業史序説(上)』四五頁)のである。
 「内地棉の供給不足、高価、紡績用原棉としての不適に対し、政府は棉種改良、棉作増進奨励の方策をとつたが、何れも成功しなかつた」(註8『日本紡績業と原棉問題研究』一一七頁)。こうして政府はついに、日本の綿作農家を守り国産綿の栽培を奨励するというこれまでの政策を転換せざるを得なくなる。明治二九年(一八九六)に輸入綿花に対する関税が撤廃されると、国産綿の生産は激減の一途をたどることになった(名和統一『日本紡績業の史的分析』潮流社、一九四九年、一二八~二一四頁)。明治三〇年には全国で四五六五万一五八一斤となり、同四四年には四五六万九〇八八斤にまで壊滅的に落ち込んだ(前同書、一八二頁)。東亜経済調査局編『本邦に於ける棉花の需給』(一九三二年)一四頁、二六頁参照。
 なお、豊井紡績所は布留川の豊富な水量を動力にすることを前提に設計されたが、水量が予想以上に不安定であった。そのため、早々に蒸気機関に頼らざるを得なくなった。
   石炭は木津川で運びそれから車で運んだといふから相当高い運賃に相違ない。積出地は大阪であつたらしい。善悪雑多の炭質があり場合に依つては磐城炭の如き泥土に塗れた赤色のものもあつた。水車と蒸気とのシヤフトはカツプリングで連結する様にしてあり、水量の多寡により附けたり外したりした。夏期水量減少の際はロープを外して蒸気の方からのみ廻はした。(註8『本邦綿絲紡績史』第二巻、三五七頁)
 このように、大阪で積み込まれた石炭を木津川経由で運び、そこから陸路を車で運搬することになった。これには多額の資金が必要となり、豊井紡績所はその後大和紡績会社、前川紡績所と名称を変更しつつ、大きな成果を上げることができないまま、種々の事情により明治三二年に廃業した。その跡地が現在の豊井浄水場である。
 国産綿を主原料とする紡績業の育成を掲げた政府の施策は失敗するが、同時期に渋沢栄一が創立・育成に尽力した大阪紡績会社(現・東洋紡)は当初から輸入綿花を原料に、蒸気機関による大規模経営を行い成功を収めた。「一八八三(明治一六)年に操業を開始した大阪紡績会社は、政府の直接的保護を受けることなく、当初から一万錐規模で蒸気機関を原動力として出発し、昼夜業を行なって資本制企業として最初の成功を収めた。」(前掲『日本紡績業史序説(上)』六二頁)、「注意すべきことは、同社創設の時期は、二千錐紡績創設のあとではなく、ほぼ同じ頃だったことである」(同、六三頁)と記されている。
 こうして日本の近代綿糸紡績業は、このあと民間資本によって大きな発展を遂げていくことになる。
 近代綿業史の研究動向については高村直助「綿業史研究の成果と課題」『技術と文明』第一二巻一号(日本産業技術史学会、二〇〇〇年)が参考になる。原綿に焦点を当てた研究としては川勝平太「十九世紀末葉の木綿市場―原綿を中心に―」『横浜開港資料館紀要』第二号(横浜開港資料館、一九八四年)、同「アジア木綿市場の構造と展開」『社会経済史学』第五一巻一号(社会経済史学会、一九八五年)が詳しい。
19,『改訂天理市史』下巻(一九七六年)には以下のように記されている。「機織(はたおり)は暮しを支えるたいせつな女の仕事の一つであった。家族の衣類―仕事着・アイ着・よそ行き着物などは、女が暇をみつけては機で織り、着物に仕立てて用を足してきたのである。もちろん、布団をはじめ生活に必要な布類もほとんど女が家で織った。奈良盆地は、すでに近世において綿作の盛んな地域であり、正月のナラシモチは綿の豊作を願って作るという習俗であった。(中略)綿を作り、糸つむぎから機織まで家でしたのは明治も前半期までぐらいで、その後は、郡山の町(大和郡山市)などで紡績の糸を求め、正月のハツゾメにコウヤ(紺屋)に出し、正月のヤブイリから機を織りはじめ、五月秋が始まると止めるが、その後も、暇ができると機にすわって家の者の五月モン・キハダなどを織った。」(二九九~三〇〇頁)
20、耕作面積の約三割が綿作に当てられていことを示す史料として、文政七年(一八二四)の「大和国山辺郡指柳村差出明細帳控」に以下のような記述がある。「当村用水不足之所故、木綿作年々三歩通余茂仕候」『改訂天理市史』(一九七七年)史料編第三巻、三七三頁。
21、筆者は平成二〇年(二〇〇八)より天理市内で綿の栽培をはじめ、昨年(二〇二〇)は約一反の畑で実綿約二二㎏を収穫した。その綿を用いて糸を紡ぎ、草木染め、機織り、絣織りにも取り組んでいる。綿の栽培方法については、日本綿業振興会監修『はじめての綿づくり』(木魂社、一九八六年)、『地域資源を活かす生活工芸双書 棉』(農山漁村文化協会、二〇一九年)が参考になる。綿の品種や品質に関しては日比暉『なぜ木綿』(日本綿業振興会、一九九四年)が、手紡ぎ手織りについては佐貫尹・佐貫美奈子『木綿伝承―手紡ぎ手織り入門』(染織と生活社、一九九七年)、佐貫尹『続・木綿伝承―先人に学ぶ手わざと心』(染織と生活社、二〇〇九年)、佐貫尹・佐貫美奈子『高機物語―日本の手織り高機』(芸艸堂、二〇〇二年)が参考になる。
22、綿の栽培によってもたらされる収益は、天候に大きく左右された。特に収穫期に雨が続くと良質の綿の収穫は期待できない。高騰する生産費や雇用人への労賃は綿作農家に重くのしかかり、綿価の下落や不作によって没落し、小作に追い込まれた農家は少なくなかった。『日本農書全集』第二八巻(農山漁村文化協会、一九八二年)に収められている「山本家百姓一切有近道」は、大和国山辺郡乙木村(現在の天理市乙木町)の大百姓山本喜三郎が、文政六年(一八二三)に子孫のために書き記した農業経営の手引き書である。そこには日々の心得や使用人に対する心構え、綿をはじめ各種作物の栽培方法などが事細かに記されており、生き残りをかけた農家の切実な思いがひしひしと伝わってくる。同書所収の谷山正道、德永光俊両氏による文献解題は、当時の状況を知る上で参考になる。
 綿作と寄生地主制形成との関わりについては高尾一彦「大阪周辺における綿作の発展と地主制の形成」(『明治維新と地主制』岩波書店、一九五六年)ほか、前掲註3「近世大和における綿作・綿加工業の展開」の註2(二〇頁)に参考文献が多数紹介されている。
23、絣の技法は「括り」のほかに板締め、織締め、摺り込み、櫛押し、型紙捺染などがある。明治期以降、東の中野絣(群馬県)と並んで数少ない木綿白絣として知られた大和の白絣は、板締めによるものである。註6の奈良県立民俗博物館『大和がすり』参照。
24、大和機については植村和代『織物―ものと人間の文化史169』(法政大学出版局、二〇一四年)、植村和代「大和の傾斜高機について(Ⅰ)」(『帝塚山短期大学紀要 人文社会科学編』第二六号、一九八九年)、植村和代「大和の傾斜高機について(Ⅱ)」(同第二八号、一九九一年)、横山浩子「当館所蔵の傾斜高機―いわゆる大和機について」(『奈良県立民俗博物館研究紀要』第一二号、一九九〇年)、横山浩子「大和の傾斜型高機」(同第一三号、一九九三年)、横山浩子「大和機―大和の傾斜型高機」(『奈良県立民俗博物館だより』通巻一一一巻、二〇二〇年)参照。前掲『おやさま―陽気ぐらし浪漫』三九頁には大和機の写真が掲載されている。
 なお、天理大学附属天理参考館の二階常設展示室には奈良県桜井市大豆越の織機(部材の一部に「山中」との墨書あり)として大和機が展示されている。 
25、用いる織機や織り柄によって作業効率は大きく異なるため単純に比較はできない。註19『改訂天理市史』下巻には「機織の一人前の一日の仕事の量は四反であったが、これだけ織るには夜明けと共に機にすわり、糸のめが見えなくなる日の暮れまで織った。」(三三九頁)とある。また、前掲『教祖の御姿を偲ぶ』には以下のように記されている。「(飯降)よしゑさんは一日中機を織っておられました。白の八反織で、家の中から出て来られたよしゑさんの両肩は、綿屑で真白でした。八反織とは織糸八反分の続いたものであります。明治十年代で、八反織って十八銭から二十銭位のものでした。当時、とびきり上手な人で一日四反を織りこなす人もあったそうです。大抵の人は一日二反というところがいいところでした。ついでですが、お米はその時分で一石五円から六円といった相場でした。」(九六頁)。ここでの四反は白木綿と考えられる。飯降よしゑ姉は明治一五年からおやしきに移り住んでいた。なお、八反織の織糸が天理大学附属天理参考館二階常設展示室に展示されている。当時の製織工程を知る上で貴重な資料である。
26、「賃機織り(ちんばたおり)」について、註19『改訂天理市史』下巻には「三、賃機織り」において、「テカセギ(賃稼ぎ)の木綿織りは娘達の大きい仕事であった。気のあった娘達はどこかの家に集まって機織をすることがよくあり、一緒に織ると仕事にはりをつけようと機織歌をうたう者もあり、そうすることで、いきはりができて仕事がはずんだという。」(三三九頁)と記されている。
 機織歌については、同書三四〇頁に「二十三夜はねぶとて寝とて/殿と二十六夜はねぶとない」「今井織り子さん何というて泣きゃる/かすり合はんというて泣きゃる」とあり、前掲『教祖の御姿を偲ぶ』には「機織りの唄」として、「うたは理でつむ布はおさでつむ/しんころくろ(綿と実をよりわける小機械)はせんでつむ」(九八頁)が挙げられている。
27、糸紡ぎや機織りが一家の生活を支える仕事ともなったことは、木綿織物がさかんな地では多くみられたようである。福井貞子『木綿口伝』(法政大学出版局、一九八五年)に「紡糸も人の手の器用さに頼るため、滑らかに紡ぐには少女時代から熟練しなければ商品にならなかった。それを恐れた親たちは、十歳に満たぬ小娘を糸挽宿に通わせ、無理に強制指導をした。」(三三頁)と記されている。これは山陰地方の話であるが、これとよく似た状況は全国でみられたと考えられる。

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